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もう終わりだね 2018/08/15(水) 16:47:28.14 ID:CAP_USER9

1: もう終わりだね 2018/08/15(水) 16:47:28.14 ID:CAP_USER9
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 「怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。中野等・九州大学教授はこう言い切る。中野教授は「石田三成伝」(吉川弘文館)で同時代の一次史料を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。

反転攻勢読み切れず兵力分散

 「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。

 その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。

 中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。

得意の情報戦で大きく後れ

 「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。

 それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。

 堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。

 本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉なくなった前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。

三成は西軍のリーダーではなかった

 最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010001-nkbizgate-bus_all

152: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:45:56.49 ID:Mo+KKYLP0
>>1
聞けば聞くほど武将としては欠陥があったとしか。 大将の資質の第1は勝負時に必要な戦力を投入出来るかどうか。 これを決断力って言うんだよ。 面だとか線だとかおためごかしですぜ? まぁこれについては家康もやらかしてるんだけどね。 家康も戦巧者ではあったけど超一流とまでは言えない。

195: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:57:53.70 ID:S/qwYvId0
司馬の「関ヶ原」が象徴的だけど、以前は家康が三成らの蜂起を見越して上杉征伐にでた
という見方が一般的だったんだよな。でも、近年は輝元・三成(というか四奉行)がクーデター起こした時点で、 徳川は賊軍となり、かなりピンチだったとする説が主流になりつつある。 >>1もその説に基づいて組み立てられてるな。

204: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:01:06.71 ID:mY8BearZ0
>>195
そのロジックは前提が間違ってるな。 戦国時代は官軍 賊軍なんて誰も気にしていない。
気にするのは相手に勝てるか勝てないかだけだ。

311: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:25:43.82 ID:9PPpIaBk0
>>1
最大の失敗は、武力蜂起を誘うために泳がされてたのに、上杉攻めの隙に、まんまとそれに乗って武力蜂起したこと

320: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:27:37.04 ID:R6RnLUK10
>>311
でも蜂起するならこのタイミング以外あり得ないだろう
ほっといたら家康の勢力が増えるだけなんだから

411: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:50:55.49 ID:9PPpIaBk0
>>320
ほっといたら、秀頼より家康の方が早く死ぬんだから問題ない。関ヶ原の戦いがなければ、大阪の陣なんて家康でも起こせない。

8: もう終わりだね 2018/08/15(水) 16:54:03.28 ID:A5GHG+UR0
秀吉恩顧の福島正則も加藤清正も徳川方に付くって
石田三成ってどんだけ嫌われてたんだ

186: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:54:21.13 ID:ZUL5VvGB0
>>8
秀吉正妻の北政所が、あえて東軍に付くよう口利きしたと言う説がある。 北政所にすれば三成では到底家康に勝てるとは思えず、豊臣系大名が西軍に全張りして 万一負けたらそれこそ豊臣家滅亡に直結するので、東軍側にも適度に恩顧大名を配置して どっちが勝ってもいいよう画策したとか。 結果、大阪の陣まで約15年は豊臣家ももった訳だから、ある意味この読み自体は間違っていなかった。

189: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:55:27.65 ID:0XK+iLwE0
>>186
有能ババアやな

200: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:58:49.60 ID:gw+xoELE0
>>186
淀が気に入らないんだよね。子ども産んだし。自分は石女だし。 でもって、淀、三成の天下になるくらいなら、家康で良いと。

616: もう終わりだね 2018/08/15(水) 20:24:05.83 ID:0FskbeHK0
>>186
北政所が家康派、淀殿が三成派という図式は司馬遼の創作らしいぞ 実際には北政所は西軍よりだったという話

11: もう終わりだね 2018/08/15(水) 16:55:28.87 ID:XDBBzxXy0
他人に嫌われやすい(誤解されやすい)性分
これがすべて

12: もう終わりだね 2018/08/15(水) 16:55:59.44 ID:3Ma5ogY10
徳川は毛利と島津を退治できなかったため、270年後に幕府をひっくり返された

36: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:08:20.14 ID:ERMSQs7U0
>>12
明治維新でひっくり返されたのは徳川家じゃなくて旗本な。 徳川家は早めに薩長に迎合したから、維新後も安泰で今でも名家だし。 慶喜は糞の役にも立たない幕府や旗本が嫌いだったから大成功。

412: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:50:55.75 ID:UnKVBqD50
>>12
だがそのたった73年後に日本はアメリカに滅ぼされた 今の日本はアメリカ様に作られたもの

22: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:02:04.89 ID:ZaKivRdm0
秀頼・三成より家康はほぼ確実に早死にするんだから その時を待ってじっとしていれば良かったろうに

229: もう終わりだね 2018/08/15(水) 18:07:05.93 ID:ZUL5VvGB0
>>22
それを誰よりも痛感していたのが家康だったからこそ、後の方広寺の鐘銘事件で
豊臣家を挑発してまで大阪の陣を起こさせた訳だし。 そもそも関ヶ原自体、家康の挑発に三成が乗った側面がある。 秀吉の死後勝手に他大名家と縁組みを進めるなど工作を行って日に日に徳川閥を強化。 その上でさも挙兵して下さいと言わんばかりに上杉討伐を名目に西国を手薄にする。 無論これでも挙兵しなければ反徳川勢力が1つずつ潰されていく訳で、 持久戦に持ち込めば持ち込むほど西軍が不利になる。 とうてい家康の死を待っては居られない、と三成が焦ったのも無理からぬ事情がある。

24: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:03:06.95 ID:l5CNoinZ0
秀次やその側近粛正でガタガタになり 立て直中に秀吉死亡 有力親族がいない幼君と有力大大名、という清洲会議と同じ状況ができた 織田にやったことを徳川にやられただけ

25: もう終わりだね 2018/08/15(水) 17:03:08.71 ID:MNmgtwnr0
石破茂並みに人望がなかったから

引用元: http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534319248/




後出しならなんでもいえる。たらればだな
kaiwa1


西が勝ってても面白かったけどな
100921